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執筆者の写真播磨菜月

所長の部屋『ゲスト:奥ちひろさん』(第一話)


第四回目のゲストは、

奥 ちひろ(おく ちひろ)さん

秋田県横手市出身、横手市在住


高校卒業後、東京の大学へ進学。大学時代、子育て支援のボランティアや中間支援NPOでのインターンシップなどをご経験され、卒業後、(特活)秋田県南NPOセンターへ就職 。現在は、同法人での市民活動の推進ほか、株式会社マルシメの経営企画、(一財)日本青年館「青年問題研究所」の常任研究員、キャリアコンサルタントと、幅広い分野で活動されておられます。


今回も研究員の播磨菜月(国際教養大学 4年生、2021年4月から7月末までの期間、NPO法人みらいの学校でインターンシップ中)と一緒にインタビューしました。


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所長)では、よろしくお願いします。

まず、横手市のどちらの地区のご出身ですか。


奥さん)平鹿町です。


所長)平鹿町ということは、何中学校でしたか。


奥さん)平鹿中学校(横手市立平鹿中学校)です。


所長)その後、高校はどちらに進学されましたか。


奥さん)湯沢高校(秋田県立湯沢高等学校)に進学しました。


所長)様々な高校がある中で、湯沢高校を選んだ理由は何でしょう。


奥さん)中学生の頃から大学進学を漠然とイメージしていましたので、進学校に進もうと考えていました。地元の進学校でどこにしようか迷っていたところ、湯沢高校は補習などもあり勉強のサポートが手厚いと、先輩から教えていただき湯沢高校に決めました


所長)なるほど。

今振り返ると、高校進学の際、高校について得られる情報量が少ないといったことや、情報源が限られていたと感じませんか。



奥さん)そうですね、少なかったです。

当時は今ほどインターンシップや職場体験、自己内省の機会が盛んではなかったということもあり、自分の将来を描くことができずにいたので、進学先を選ぶ基準もよく分かりませんでした。


所長)現在はキャリア教育の重要性が認識されてきていますが、中学生や高校生の時点で働くということを想像できる人は少ないかもしれませんね。振り返ってみていかがですか。


奥さん)世の中には多様な働き方をされている方や、様々な生き方があるということを、小さい頃から知っておきたかったです。現在、小学生からおこなわれているキャリア教育のように早い段階から自分や職業を理解する機会がもっとあれば良かったと感じています。

この想いは、今キャリアについて問題意識を持って関わっている根源になっています。自分の子どもにもたくさんの大人に触れさせたいと思っています。


所長)働くことや仕事に対し、考え方が人それぞれにあるので難しい問題ですよね。

そのような問題意識をお抱えということは、高校時代に社会と接する機会が少なかったということでしょうか。


奥さん)はい、少なかったです。


所長)進学校は得てして社会を知る機会が少ないといったことが当時はありましたからね。

高校で理系か文系を選んで進路を絞っていくケースが多いと思うのですが、どちらでしたか。


奥さん)文系に進みました。


所長)では、大学はどちらに進学されましたか。


奥さん)東京にある玉川大学です。


所長)そうなんですね。

大学もたくさんあり選ぶのが大変だったりしますが、なぜ玉川大学を選んだのですか。


奥さん)大学選びはすごく悩みました。はじめは県内や東北の国立大学を探していました。ですが、大学について調べたりオープンキャンパスに行ったりしても、当時は大学ごとの特徴に違いが感じられず、心引かれるところがありませんでした。そのような状態でしたから両親が心配していくつか選択肢を提供してくれました。その中に玉川大学があったことが志望したきっかけです。


所長)なるほど。学部はどちらでしたか。


奥さん)文学部のリベラルアーツ学科です。当時新設の学科で、現在はリベラルアーツ学部になっています。


所長)ご両親から選択肢を提供いただいたとのことですが、その中でも玉川大学を選んだ理由は何でしょう。



奥さん)選んだ学部がその時の考えや想いにフィットしていたということがあります。当時、自分探しをしていて、自分は何がやりたいのかということ、大学進学する目的などを考えていた時期でした。志望した学部では、最初は広く学んで、後から専攻を絞っていくことができる仕組みがあり魅力的と感じました。


所長)自分探しの時期と、進学の時期が重なったということですか。


奥さん)そうです。自分探しという課題は長年抱えていたことですが、進路選択はそれまでに比べ、より自分に責任を持たなければならないことだと感じたので今まで以上に悩んでいました。


所長)その年代で自分探しといったことを深く考えている人は少ないように感じますが、随分と深く悩んでいたのですね。


菜月)わたしもリベラルアーツを掲げる大学に進学したのですが、幅広い知識を得たいと思ったという部分が似ていると感じました。なぜ大学に行くんだろうと考えたということでしたが、大学進学ではなく就職という道も考えましたか。


奥さん)就職という選択肢も考えていましたが、働いて何がしたいのかもはっきりしていなかったため、就職という道も選べませんでした。モラトリアムだったなと思います。


所長)大学に進学し、抱えていた悩みは解消されましたか。


奥さん)学内での生活だけでは解消できなかったですね。


所長)大学生活はいかがでしたか。


奥さん)文学部のリベラルアーツ学科でしたので、文学はもちろん心理学や科学など幅広い分野を勉強しました。3年生で専攻を決める際は民俗学を選択し日本人の暮らしや意識を学びました。サークル活動は1年で辞めてしまったのですが、英語でミュージカルをするサークルに入っていました。そして、2年生の時にNPO活動を始めて今に至るという感じです。


所長)なるほど。現在もNPO法人で働かれているわけですが、この道に入るきっかけがそのNPO活動だったのですか。


奥さん)そうです。NPO活動との出会いは、東京で一人暮らしをしていたアパートの隣の家が子育て支援をしているNPO法人の事務所兼活動スペースだったことです。たまたま生活の中で見つけ、その法人の活動内容、そこで活動する大人に感銘を受けボランティアを始めたことがきっかけです。


菜月)生活の中での偶然の出会いですか。具体的にどのような活動をしているNPO法人だったのでしょうか。


奥さん)仕事が忙しく、遅くまで働く方のお子さんの居場所でした。都市部では鍵っ子が多く、学童に行くお子さんも多いのですが、学童が終わる時間でもご両親が働かれている家庭もあります。そのような家庭環境の子どもたちが、学童が終わったあとに集まれる第二の家のような雰囲気の場所でした。



菜月)NPO法人の活動に感銘を受けたということでしたが、どのようなところに惹かれたのですか。


奥さん)わたし自身が幼少期に、身近な人に話せないような悩みを地域の大人が聞いてくれる場所があればいいなと思っていたことがありました。まさにそれを実現している活動でしたので、関わりたいと思いボランティアに加わりました。携わる業務も楽しかったです。


菜月)都市部でそのような実態があり、子どもたちに居場所を提供する活動をしているNPO法人があることを初めて知りました。


所長)見過ごしがちなところだと思います。


奥さん)そうなんです。まさにNPOはそのような部分にアプローチしています。行政も企業も着手できないような隙間の課題が地域にはたくさんあり、そうした見過ごされがちな部分に対して問題意識を持って活動しています。学生時代にNPOで働くという生き方に出会い、とても感動しました。


所長)大学生の間は、そのNPOでボランティアを続けていたのですか。


奥さん)このNPOからは途中で離れてしまいました。というのも、ボランティア活動自体は楽しかったのですが、先程お話しした幼少期の悩みをわたし自身が克服できていなかったことがあり、同じような気持ちを抱える子どもたちを見ていると辛くなってきてしまったんです。


所長)そのようなことがあったのですか。


奥さん)団体の方へ相談し、そのNPOを離れてからは、大学がある町田市の子育て関連の施策を検討する会議の委員として選ばれたりして貴重な経験をさせて頂きました。活動の中でたくさんの大人の方々とお話しする機会を得て、子育て支援以外でも様々なテーマで活動するNPOの存在を知り、それらをサポートしている中間支援という分野のNPOがあることも知りました。

私が子育て支援に直接携わらなくても、活動する団体を応援することで貢献できると感じましたし、中間支援NPOのスタッフが持つ専門性にもあこがれ、千葉県松戸市にある市民活動サポートセンターでインターンさせて頂きました。そこでのご縁からコミュニティエンパワーメントを推進する豊島区のNPOの事業にも運営スタッフとして関わらせて頂きました。


菜月)今お勤めのNPO法人が、おこなう分野ですね。


奥さん)そうです。中間支援をおこなうNPO法人で活動して、理想の生き方が見えた気がしました。


菜月)学生時代に社会で働くことに対し抱えていた葛藤を、NPO活動を通して解消され視野を広げられたということですが、これを踏まえて当時やっておけば良かったと感じることはありますか。



奥さん)あまり勉強が好きではなかったです。大学に入る前までは身になる勉強ではなく、ひたすら覚えるという感覚が強かったのですが、大学入学後は自分で探求し身に着ける楽しさに気づきました。それでも、自分で調べ整理し次の選択に生かすことができていなかったことを後悔しています。どちらかというと内向的で、自分について深く考えることが多かったのですが、もっと世の中の仕組みに目を向けながら考えていれば良かったと思います。


所長)振り返るとそういう気持ちになることがありますよね。

大学生活が終わると社会に出るわけですが、最初はどこに就職しましたか。


奥さん)今働いている秋田県南NPOセンターに新卒で入りました。


所長)新卒で入られたのですか!

では、地元に帰ろうという気持ちがあったということでしょうか。


奥さん)ギリギリまでなかったです。中間支援のNPOでインターンシップをしていたのは大学3年生の時でしたが、ちょうど就活の時期でもありましたので、就活のために企業説明会やインターンシップに参加したりもしていました。ですが、企業がなぜ利益を追求するのか、その利益を何に使うかということがはっきり示されていないように感じられモヤモヤを抱えていました。納得できない部分もありつつ、働かなくてはいけないというところで葛藤し、内々定をいただいた企業でインターンシップをしてもモヤモヤ感は晴れませんでした。

また、それとは別にもう一つのモヤモヤがありました。東京で暮らしていると自分がすごくちっぽけな存在に思えていたのです。道端で倒れた人がいても無関心な人が多いまちで、そこにわたしの存在があってもなくても誰も何も感じない気がしました。そんな社会の中で働いて稼ぐことに意味があるのかなど、自分の中でぐるぐると考え込んでいました。



菜月)いつ頃、秋田に帰ろうと思ったのですか。


奥さん)リーマンショックが大きなきっかけでした。播磨さんはこの出来事は知っていますか。


菜月)授業で習った記憶があります。


奥さん)播磨さんはまだ小学生の頃の出来事だと思います。わたしも最初はアメリカの話だと思っていたので身近に危機は感じていなかったのですが、それからしばらく経って地元の友人と電話していた時、その友人の父がリーマンショックの影響で仕事を失ったという話を聞きました。その話にショックを受け、他人事ではなく世の中が繋がっているということを瞬間的に実感しました。

当時は、秋田県で母親が子どもを殺してしまったという出来事が全国ニュースで流れるなど、秋田の悪いニュースが多く流れてくる時期でもありました。民俗学専攻でしたので田舎の文化や暮らしに意識を向ける時間があったこともあり、地元のことを考える時間が増え、ついには眠っていても秋田のことを夢で見るようになりました。両親がおじいさんおばあさんになっていて空き家がたくさんあり、このままじゃ秋田が滅びてしまうといった夢を見て、その朝に秋田へ帰ろうと決めました。


菜月)夢で秋田に帰ることを決められたのですか。


奥さん)そうです。夢に見るほど秋田を思っている自分がいるということに気が付きました。納得のいかない仕事をするより、自分の想いがあるところで仕事をしたいと思いました。



<第2話へつづく>


取材日:2021年7月7日

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第2話は、現在の職場との出会いや現在の活動に至る経緯、様々な葛藤と向き合い乗り越えてこられたからこそのお話しをお届けします。お楽しみに。



奥さんがお勤めの『特定非営利活動法人 秋田県南NPOセンター』、経営企画で携わる『株式会社マルシメ』、青年問題研究所の常任研究員として活動されている『日本青年館』の情報は、以下から確認できます。


特定非営利活動法人 秋田県南NPOセンター

株式会社マルシメ


一般財団法人日本青年館

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